「よりよい町づくり」は、福岡から世界へ 国連職員として必要な能力は、情熱と専門性
濵井 貢
WFP(国連世界食糧計画)日本事務所 政府連携担当官
<Profile>
中学卒業後、大学入学資格検定(大検)で大学へ進学。卒業後、福岡市役所に就職。青年海外協力隊、アジア経済研究所・開発スクール、ハーバード大学大学院(ケネディスクール)を経て、外務省JPO派遣制度で国連世界食糧計画(WFP)に勤務。派遣終了後、正規職員となる
国連を志す中高生が増えている。一方外務省も、日本人職員の増加をめざし目下取り組み中だ。例えば「JPO派遣制度」は国際機関を志す若者を当該機関に一定期間派遣し、知識と経験を提供することで正規採用へとつなげるプログラム。国連職員の濵井貢さんもJPOを利用した一人だ。社会人になるまで一度も海外へ出たことがなかったという濵井さんが、どのようにして国連職員になったのか。お話を伺った。
(文・小出弓弥)
青年海外協力隊で得た確信 「これが自分のやりたかった仕事だ」
私は生まれ故郷の福岡が大好きでした。この町をよりよくしたい、そんな思いが中学生の頃はっきりと芽生え、そして同市役所の職員になりました。様々な町づくり事業に携わり充実していましたね。しかしある時ふと、一度この町を外から眺める必要があるのではないかと思い至りました。客観的な視点が必要だと感じたのです。
そこで中国の北京へ、初めての海外旅行に出かけました。衝撃的でしたね。福岡から飛行機で一時間ほどの土地に、これだけ文化の違う人々が暮らしている。もっと色々な国を知りたいという欲が出て、青年海外協力隊への参加を決めたのです。派遣先は南米のパラグアイ。先住民族グアラニーの村で生計向上のための活動を普及する仕事で、野菜の栽培やティラピアの養殖などを行いました。とても面白かった。福岡では140万人の市民が対象の仕事でしたが、ここでは地元のコミュニティと共に手づくりの活動ができる。“これが自分のやりたかった仕事だ”と確信しました。海外で生きていこうと決めたのは、この時です。
さしあたって必要なのは修士号に裏づけられた専門知識と英語力でしたが、私はどちらも持ち合わせていませんでした。そこでJICAのスタッフに聞いたアジア経済研究所の開発スクールに入学し、英語や開発経済について一年間徹底的に学びました。翌年ハーバード大学ケネディスクールへ留学し、公共経営学を専攻。JPOの試験を受け、合格通知を頂いたのもこの時です。それまで国連の仕事をイメージしたことはなかったのですが、これも何かの巡り合わせだと思い、入職を決めました。つまり私の場合初めから国連をめざしていたのではなく、その時々の思いや人との出会いに導かれ、ここにたどり着いたのです。
正規職員として国連WFPへ配属 仕事のやりがいは常に現場にある
数ある国連機関の中で、私は国連世界食糧計画(WFP)に行くことを決めました。数ある国連機関の中でも、国連児童基金(UNICEF)、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、そしてWFPの3機関はフィールドでの職務が重要な意味をもちます。私は現場志向ですし、地元住民と共に農村開発ができるWFPの活動は、まさにうってつけでした。
職員として最初に派遣されたのはケニアのナイロビ。HIV/AIDS対策プログラムの一環としての食糧支援に取り組みました。HIV感染者が副作用の強い抗HIV薬を飲み続けるためには、栄養のバランスのとれた食生活が不可欠です。しかしここでは食糧を確保することが難しく患者の栄養状態は不十分でした。現地の人々が長期的に自力で食糧を確保できるようにすることが、WFPの任務だったのです。
2年の派遣期間を終え、正規職員として採用されることになりました。今度の勤務先は南アフリカのマラウイ、肩書きは「調達担当官」です。その名の通り食糧を調達し貧しい地域に届ける仕事ですが、ここでは大きな国際マーケットから買い付けるのではなく、もっと小規模で身近な農民グループから直接買い付けるプロジェクトを立ち上げました。住民の自立のために“地域の中で食糧を回す”という地産地消型のサプライチェーンを構築するためです。国中を回って見込みのある農民グループを見つけ出し、直接交渉しました。“一定の品質をクリアすれば国連が買い付けますよ”ということですね。地道な取り組みでした。小規模農家の売るトウモロコシは虫食いだらけ。一袋の標準量を満たしていない。あるいは多過ぎる──そこから少しずつ改善を進め、ようやく初めての調達案件が成立した時は感慨深かった。いま振り返ると、このプロジェクトが最も印象深く残っています。一から立ち上げたプロジェクトですし、地元のコミュニティと共に作り出すという作業が自分には合っているのですね。
経験を積み、専門性を磨くこと そして情熱を燃やし続けること
WFPは飢餓をなくすことを任務とする国連唯一の食糧支援機関です。主に、災害や紛争時に食糧を届ける「緊急支援」と、自立のための「開発支援」の両輪で活動しています。飢餓をなくすためには一方的な支援では実現しません。地元住民による“自立の気運”が不可欠です。私は主に後者に携わってきました。その後ローマ本部に異動し、今度は専門的な調達官として世界のマーケットを相手に、大規模な調達を行いました。そして今は日本事務所で「政府連携官」をしています。日本政府やJICAなどの公的機関とパートナーシップを組み、支援を頂く仕事です。そのほか日本事務所には、個人や企業から支援を頂く「民間連携官」と、WFPの活動内容を広くPRするための「広報官」、と大きく3つの職務があります。
国連スタッフとしての仕事を大別すると、専門職とプログラム職に分かれます。専門職には例えば財務・栄養・物流など、さらに細かく言えば物流の中でも陸運・海運・空運と、あらゆるスペシャリストが在職しています。一方プログラム職は、プロジェクトを企画立案し執行する職務で、門戸が広い。しかしこれまでの経験に基づく内容になりますから、やはりプロジェクト運営に関する専門性は欠かせません。これから国連職員をめざす皆さんには、ぜひ経験を積んで欲しいですね。経験とはつまりさまざまな専門スキルを高める作業に他なりません。国連職員になるには一般的に修士以上の学位が必要とされていますが、それ以上に“即戦力として自分は何ができるのか”その内容が重要なのです。
そして、「優先順位のつけ方」を練習すると良いと思います。真面目にコツコツ働き細部にわたり完璧を求める日本人の気質は、高評価の対象になりますが諸刃の剣です。目的も背景も違う多国籍の現場では皆のコンセンサスを得るのは難しい。このような時私たちは、完璧を求めず、優先順位をつけて仕事をこなすことが求められます。会議の場でも“ここだけは譲れない”という一点を予め決めておき、それ以外はそれぞれの領分を尊重する方がうまくいく場合が多い。全員がすべての部分に、事前に納得する業務というのは存在しないと考えています。
そして経験を重ねた今、一番大切だと思うものが“情熱”を持ち続ける力ですね。若い時には特に意識しなくても、それはそこにあった。しかし年齢を重ねるにつれ、情熱は枯渇していくものです。ある人に聞いた受け売りですが、どれだけ薪をくべ、情熱を燃やし続けることができるか。それも一つの能力だと気づきました。私はそのために、仕事であれプライベートであれ、やはり現場に足を運ぶようにしています。机の上で数字を動かしていると、時に自分が何のために仕事をしているのか見失うことがある。現場に行き人と接することで、それを再確認することができるのです。昨年の暮れにはロヒンギャの難民支援に出向きました。これでまた一年頑張れるぞ、と思いましたね。
国連での仕事はすべて自ら取りに行くものです。例えば緊急支援に参加したければ、ロスター(派遣候補者リスト)に登録し派遣の機会を待ちます。違う職務に就きたければ、空席公告をチェックし応募します。常に自分の情熱と努力によって、仕事が成立するのです。そして私はまたいつかフィールドに戻るでしょう。常に新しいことにチャレンジしていたい性分なのです。
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所在地 | 〒100-8919 東京都千代田区霞が関2-2-1 |
公式サイト | https://www.mofa-irc.go.jp |
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